ぬこトレンド♪

トレンド速報をお届けしまぷ☆(*´ω`*)

日本書紀を読んだ韓国人が『最悪すぎる分析結果』を導き出した模様。露骨すぎる嘘連呼に日本側激怒

   


1: 蚯蚓φ ★@\(^o^)/ 2016/02/27(土) 20:47:46.39 ID:CAP_USER.net
20160226002961_0

▲「百済と昆支王」チョン・ジェス著/1万6500ウォン

5世紀中頃、百済王昆支にまつわる因縁が込められた歴史ドキュメンタリー物だ。昆支が日本に渡り活動した事実は日本の正史‘日本書紀(720年)’に記録されている。日本から韓国に戻って死んだ話は‘三国史記’に記録されている。

日本書紀は昆支を百済王または王子と記録した。作者によれば昆支の直系子孫が暮らした日本現地には‘飛鳥戸神社’、別名‘昆支王神社’が今も維持されている。昆支は5世紀、韓・日古代史で最もミステリーのある人物だ。記録は多くないが、韓国と日本の歴史書物に共通して登場する人物だ。

日本書紀によれば461年、昆支は当時、日本の首都だった大和に入って息子5人をもうけた。彼の息子たちは代々、百済東城(トンソン)王、武寧(ムリョン)王になり、子孫は大和政権の天皇になった。

これに先立って高句麗広開土王は3次にかけて南伐を断行、百済を焦土化する。396年には金江流域と漢江流域を、400年には洛東江流域を、407年には栄山江流域と南海岸一帯を荒らした。高句麗の侵攻に追われて金江、栄山江流域の三韓支配層と民は大規模に日本に亡命し、大和政権を樹立する。

百済系の大和政権が安定するとすぐにその支配者らは亡命以前に支配した三韓領土領有権を主張し、百済と葛藤を起こした。この問題を解決するために461年、昆支が大和に派遣された。昆支は大和に留まり仲裁に成功する。

その後、百済に戻った昆支は重責を引き受けて王権の安定化と戦後復興事業にまい進して政敵に暗殺される。昆支は死んだが、昆支の息子らが王位を継承しながら660年滅亡するまで200年間余り王統を継続する。

キム・シンソン記者

ソース:世界日報<韓国・日本古代史に登場‘昆支’という誰か>
http://www.segye.com/content/html/2016/02/26/20160226002664.html


続きを読む

 - blog, 日本

ダイエット
×