1年前の韓国浦項地震の被災地が世にも無残な光景を晒している ゴネ得被災者がいまだ居座っている
旧正月連休を2日後に控えた1月31日午前、慶尚北道浦項市(キョンサンブクド・ポハンシ)の興海(フンヘ)室内体育館。体育館前は道行く人や車もなかった。体育館から白髪混じりの老人が出てきてたばこを取り出してくわえた。彼が雪の降る虚空に何度か煙を吐き出して再び中に入るまで体育館の前は人もおらず、老人が息を吐く音だけがあふれた。
1年前までも体育館は被災者と公務員、取材陣、ボランティアなどが集まり騒がしかった。これに対しいまでは表から見ると一般の体育館と変わらない。しかし中を覗いて見るとマグニチュード5.4の地震が起きた当時の風景そのままだ。1階と2階に設置された220個のテントが撤去されていないためだ。ここにはまだ自宅へ帰ることができない被災者40人ほどがとどまっている。
興海室内体育館は2017年11月15日に浦項沖で地震が発生した直後に被災者の避難所になった。そうして1年ほどが過ぎ、体育館内部からは人が住む住宅の雰囲気まで感じられた。テントに干された洗濯物、2階の欄干に置かれた植木鉢、退屈さを慰める読み物と運動器具が目に付いた。だが被災者はほとんどがテント内に身をかがめて横になり姿をなかなか現さなかった。
テントで横になっていたシン・スンオクさん(69)は「名節でも目の前にある自宅に帰れず胸が痛い。外地に出て行った子どもたちに今年も来ないようにと話した。旧正月の朝に水を一杯置いて夫と簡単に祭祀を行う予定」と話した。
長期にわたる外での生活に心身が疲れはてたためか、記者が話しかけると怒る被災者も多かった。ある60代の男性は「最初は取材に応じていたが、時間が過ぎるほどに私たちの意図とは違う報道が出るようになり、世論も『補償金を狙ってごねている』という形で流れており怒りが爆発しそうだ」と話した。匿名を要求した50代の女性は「世論の関心が減ったので記者たちも訪ねてこない」として失望感を示した。
地震発生直後の被災者数は1000人以上だった。当時被災者は興海室内体育館をはじめとポスコ修練院などに分散して生活した。だがいまではほとんどが新居に引っ越したり、韓国土地住宅公社(LH)が支援した臨時住宅で暮らしている。いまや残った避難所は興海室内体育館が唯一だ。被災者はどうしていまでも残っているのか。
体育館に残った被災者はここからで500メートルほど離れたマンションに暮らしていた。このマンションの住民らは浦項市が建物点検で一部損壊判定を下した後に帰宅させようとしたが従わずに避難所生活をしている。人が生活するのが困難なほど建物が壊れ帰宅できないという。
浦項市は地震発生後に専門業者に依頼してこの建物を精密点検した。その結果、全4棟(240戸)全体がC等級(一部損壊)判定を受けた。住民らはこれに反発し独自に選定した専門業者に点検を任せた。ここでは2棟がE等級、2棟がD等級判定を受けた。E等級は全壊、D等級は半壊に当たる。
2つの点検にこれほど大きな違いが生じたのは、互いに適用した設計基準が異なるためだ。浦項市が依頼した専門業者は建物新築当時である1988年の設計基準を適用し、住民らが依頼した専門業者は2016年に改正された構造安全性基準を適用した。行政安全部は「設計当時の基準を適用するのが正しい」という意見を出し、マンション住民らは結局移住支援対象から除外された。
浦項市関係者は「被災者の法的救護期間である6カ月をはるかに過ぎたが住民らは帰宅できない状況で、避難所の運営を終了するのも難しい。関連行政訴訟が進行中で3月14日に初めての弁論がなされるだけにその結果を待ちたい」と話している。
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[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]2019年02月03日 12時16分
1月31日に訪れた慶尚北道浦項市の興海室内体育館。