日帝残滓の排除で韓国が李氏朝鮮時代に逆戻りする可能性が浮上 知事・大統領もアウトだ
http://www.knnews.co.kr/edb/nimages/2018/08/20180822.01010123000002.01L.jpg
▲キム・チョンブ(元昌原(チャンウォン)第2副市長)
「道知事」は広域地方自治体である道の行政事務を総轄する最高責任者の職名だ。高麗時代、朝鮮時代に遡れば今の道知事を「ドベク(道伯)」または「観察使」といった時があった。それなら「道知事」という名称はいつからどのように付けられたのだろうか。
筆者も慶南(キョンナム)道庁で幹部公務員として長い間勤務をしたが、その意味を考えて見たこともなかった。退職をして社会に適応した時の2014年当時、道知事が道民の上に君臨しているという不満の声が出た時、道知事の席がそんなに高い職責なのかと思って疑問を持ち始めた。
疑問を解くために大学教授、高位公職者、地域の文化院長など多くの方々に道知事とはどういう意味であり、いつから付けられた名前なのか質問してみたが自信を持って返事を言える人はいなかった。
当時、道庁ホームページの由来・沿革に登録されている慶南の歴史編を見れば1914年、「道には知事を置いて下部組織として知事官房、内務部、財務部、警察部を置いた」と記録されていた。これは年度記録が誤まりだった。
私たちは普段こうしたことにあまり関心がなかったということだろうか?うわさをたよりに捜したあげく捜し出したのが韓日合邦後、朝鮮統治のために1910年9月30日(純宗3年)制定され、日帝朝鮮総督府管制勅令第354号とともに公布された全文28条と付則で構成される「朝鮮総督府地方官官制(地方官制)第357号」だった(10月1日から施行)。
ここで朝鮮時代の職名である道観察使を道長官に改称し、各道に内務部と財務部を置くようにし、1919年8月19日地方官制改正(勅令第391号)で地方官の内容も大きく変わったが、この時、道長官を「道知事」に変えてその下に知事官房と第1部、第2部、第3部を置いた。
ここで見るように「道知事」が最初に使われた時期は1919年であり、その当時、日本で使う道知事をそのまま使ったことが分かる。「道知事」という肩書が日帝残在でなくて何か。昨年、筆者が慶南道の高位職要人に慶尚南道の由来・沿革の歴史記録が誤まっていると指摘し、関連資料を送ったが、道知事関連の内容だけ1914年から1919年に修正しただけで1910年10月1日、道観察使を道長官に改称した内容は挿入しなかった。結局今でもこの部分は抜けている。
これまで多額の費用をかけて数回、慶尚南道史の保証版を作ったが、この様な内容が脱落したことは関心不足や無知だったためであろう。この際、日帝残滓清算をかねて「道(ド)で一番多く知っている人」という意味の「道知事」より朝鮮時代600年間使ってきた「見て回わる」という意味の観察使に変えてみてはどうだろうか。
※コミュニケーションの広場にのせられた外部執筆陣の文は本紙の編集方向と一致しないこともあります。
ソース:慶南新聞(韓国語) 道知事職名は日帝残滓?-キム・チョンブ(前昌原)第2副市長)
http://www.knnews.co.kr/news/articleView.php?idxno=1259288
関連スレ:【韓国】 「『総務課』という名称は日帝残滓で軍国主義的表現~『運営支援課』などに名称変更を」と世宗市議員[07/31]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533049512/
【韓国】『教育監』や『校監』は日帝残滓・・・『教育庁長』、『副校長』に名前を変えよう[08/03]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533260254/