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『日本は善良な隣国ではない』と韓国人教授が”古すぎる話題”を持ちだした模様。相変わらずの対日ヘイトを展開中

   


1: 蚯蚓φ ★@\(^o^)/ 2016/04/15(金) 17:19:44.90 ID:CAP_USER.net
http://ph.kihoilbo.co.kr/news/photo/201604/647296_165954_5127.jpg
▲キム・ホリム仁川(インチョン)大客員教授/コラムニスト

1935年春、ギリシャの作家ニコス・カザンザキスは日本を初めて訪問して書いた紀行文で日本を「桜と大砲」と描写し、米国の文化人類学者ルース・ベネディクト教授は1944年6月、米国務部から「日本はどんな国民なのか」という研究委嘱を受けて1946年‘菊と刀’という日本文化の枠組みを提示した。これら西洋知識人の描く日本の真の姿は「桜と大砲」であり「菊と刀」という象徴で、外見と内心が互いに矛盾した二重の顔だった。

これまで私たちはなぜ日本がドイツと違い慰安婦問題など植民地侵略の反倫理的な犯罪事実を認める最小限の道徳性とこれを謝罪する勇気が無いのか、という解けない疑問を絶えず提起してきた。私たちに永く苦痛を加えた隣国にもかかわらず彼らは誰なのかを正しく知っているのか。

ベネディクト教授は「菊と刀」で日本が起こした戦争の原因を階層構造拡散の視点から見た。日本はかつて武士中心の階級制度を構築した階層制社会であった。彼らは各国が互いに絶対的主権を持つことになれば世界は無政府状態が続くと考えた。従って日本は世界秩序安定のために階層構造の指導者である自分たちが覇権国になって世界各国を各々のつりあった位置を持つ階層化を達成することによって世界統一できるという戦争論理を主張したと解釈した。

不幸なのは日本のこのような幻想に対し被占領国家は全く同意しなかった事実だ。それにもかかわらず、敗戦後まで日本はこのような理想が道徳的に拒否されることはないと考えたのだ。

もう一つの重要な事実は日本は恥を基調とする文化が形成された点だ。これは罪を基調とする文化と区別される。道徳の絶対的基準を設定して良心の啓発を意志とする社会は‘罪の文化’に属し、内面的な自覚によって先行するのに反して‘恥の文化’は外面的強制力が優先される。従って罪を犯した人はこれを隠さず告白することによって重い荷物を下ろせるが、恥が主要な強制力になる社会は誤りを告白しても全く気が楽にならない。反対に彼らの悪行が世の中に知られない限り悩む必要がなく、告白はかえって自らの悩みを自ら招来するものと考えられる。

従って恥の文化では人間や神に対し告白する習慣がない。日本人のこのような恥は自身の義務と義理をつくすことができなかった時の他人の批判に対する反応で、他人の前で嘲笑されたり拒否されたと信じる時、羞恥を感じる。しかし、恥を感じるには批判に対する証拠がなければならない。これは自らの非行を誰も知らずとも、罪の意識に悩み、その罪を告白することで罪悪感が軽減される‘罪の文化’とは非常に異なる行為だ。

このような文化人類学的な接近で見る時、日本がドイツと違い戦争挑発の不道徳性について鈍感なだけでなく、植民地戦争中に行なわれた蛮行に対し罪の意識よりは彼らの悪行が明らかになることによって文明国家に対し羞恥心を感じるだけだ。さらにその証拠が明らかにならない限り悩む必要がないことが、反倫理的な事実を否認し歪曲する理由ではないか考えられる。(中略:日本は日和見主義)

ロシアのことわざに「過去を忘れれば片方の目を失うことになるが、過去に執着すれば両方の目を失うことになる」という言葉がある。これは私たちが処した北朝鮮の核脅威と韓半島をめぐる覇権競争の厳しい現実で安定と繁栄を守れるように賢く切り抜けて行くために耳を傾けなければならない言葉だろう。しかし、彼らも一つの手には花、他の手には武器を差し出しながら善良な隣国にはなれないことを知るべきだろう。

ソース::畿湖日報(韓国語) 日本は果たして善良な隣なのか
http://www.kihoilbo.co.kr/?mod=news&act=articleView&idxno=647296


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