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TVの人種差別騒動で『在日教授が”特権拡大”を目論む』嫌すぎる展開に。自分達は被害者だと声高に訴え

   


1:名無しさん@涙目です。(dion軍) [ニダ]:2018/01/06(土) 08:52:12.41 ID:BxsbKvH10 BE:989661427-2BP(1500)

表現の自由、表現される不自由、そして表現による自由
韓東賢 | 日本映画大学准教授(社会学)

この原稿の直接のきっかけそのものは旧聞に属する話題だが、同様の議論は繰り返されている。引き続き問題提起していきたい。

「表現の自由」?

先日、あるバラエティー番組が、誰が見ても同性愛者を嘲笑するようなキャラクターを数十年ぶりに復活させ、登場させたことが大きな批判を浴びた。一方で、「昔はよかった」「最近は窮屈」「表現の幅が狭まる」などといった声もあがった。

近年、社会的マイノリティへの差別や偏見を助長するような表現が批判され、問題になるたびに同じようなことが起きる。先のような言葉でなぜかすぐに「表現の自由」と「表現の制約」という二項対立にしてしまう人たちがいる。それは問題を、「表現する側」からしか見ていないからだ。

だがこれは、「表現される側」の問題だ。

「表現される不自由」

こうした場合の対象になるのは、その社会で「普通とはちょっと違うとされている存在」であることが多い。またほとんどの場合、その「普通とはちょっと違う」部分は偶然的な個別の特徴ではなく、社会的な属性にもとづくものだ。

 つまり、そのような社会的な属性にもとづいて、ネタとして選ばれがちな社会的マイノリティと、そうでない社会的マジョリティがいる、という不平等の問題なのだ(ここは、信頼する研究仲間のヘイトスピーチに関する持論の受け売りだ)。社会的マイノリティはつねに一方的に、「表現される不自由」を背負わされている。

社会的マジョリティの「表現の自由」を守るために特定の属性の人ばかり動員され、傷つけられるのだとしたら、それはやっぱり普通に考えておかしいだろう。さらにその表現によってその不平等が助長されかねないのだとしたら、より理不尽だ。

もし、みなが平等に、また偶然に傷つけられるのだとしたら、それは差別の問題ではない。
だが、前述したように何がネタとして選ばれるかはたいてい社会構造と結びついている。だから、マイノリティの「表現される不自由」は、差別の問題だ。

以下ソース
https://news.yahoo.co.jp/byline/hantonghyon/20171226-00079739/

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