『日本の上流階級が全員韓国系なのは明白』と専門家が”歴史的事実”を指摘。日韓の学会もそのまま認めている
日本は私たちが海を渡って作った新しい国だった
イヨンカン韓国無形文化遺産陶磁器名工
一年の間、夏場を除いては、3季節のほとんどが北西風が吹く韓半島の特性上、東海岸の江陵、三陟、浦項などで船が漂流すると、日本の西海岸に到着して、釜山近海で流されていくと、福岡近海に着く、済州島で時化に会えば琉球(沖縄)に到着する。このような理由から、先史時代から多くの韓半島人が今の日本に渡って住むようになるが、日本列島の民族構成は、大きく三つに分けられる。
第一は大陸が列島と繋がっていた古代の移住と、氷河期に凍った海を渡って住むようになった韓半島地域の北方渡来人と、第二に南方地域の海洋文化を持った勢力の北上で主流が構成され、白ロシア系のアイヌ族が勢力的に位置している。本格的に大規模な人員が渡日することになる歴史的な出来事が百済の時だろう。
2010年12月23日、明仁日本国王は新年の演説でこう言った。 「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」ここで言及した明仁日本国王の言葉のように、日本の王室は百済系から来たという事実を教書を通じて告白したわけである。
桓武天皇の母である華氏夫人が百済人というのは、よく知られた事実である。華氏夫人の父は、倭の王室で「百済祖神」という官職を務めたファサウル ギェで彼は百済武寧王(501~523年)の直系の子孫である。この内容は「続日本紀」に記録されており、韓日の歴史学界がそのまま認めている。
武寧王はまた、日本で生まれたことで有名だが、その理由は西暦475年に高句麗の長寿王の奇襲攻撃を受けた今の漢江流域に漢城百済の蓋鹵王が戦死する前に、急いで弟の昆支を呼んで臨月になった王妃「ヘラソファ」を連れて日本に避難させて、大阪難波に向かう途中、北九州の加唐島で出産することになり幼名をドグン(嶋君)とし、倭国から再び百済に連れてきて育っている。
熊津に遷都した百済は文周王、三斤王、東城王が順番に王位に上がるが王道遷都の混乱と貴族勢力間の軋轢にいずれも疑惑の死を迎えることになって、不惑の年に武寧王がその後を継いで25代百済王に即位することになるのである。そして660年31代義慈王ときの百済滅亡の際、5万人の人員が日本に渡って行くことになるが、流民の首長として後日38代天智天皇になる人物で、中大兄皇子が今の京都の近く近江八幡に率いて定着することになる。
このような歴史的事実で見たとき、日本の王室と貴族勢力の大半が韓半島から渡ってきた渡来人で構成されていたという事実に成り行きが注目されるところである。彼らはいつも祖国を懐かしがっており、そのような詩と歌は「万葉集」にそのまま盛り込まれている。推測すると、そうした遺伝子がエディプス的なコンプレックスに作用して、いつも領土侵奪の野望に変形して現れるのではないか、そして壬辰倭乱を起こし乙巳条約で朝鮮併呑を敢行したのだろうと類推してみる。
ソース:将忠清日報 2017.03.02 17:53:19(機械翻訳)
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