韓国版「名誉革命」が『韓国の最後の命綱を断ち切る』皮肉な結果が発生。韓国は植民地のままだったと専門家絶望
(画像:1961年「5・16軍事革命」の中心人物は朴槿恵大統領の父、朴正煕少将(写真左)らだった)
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朴槿恵(パク・クンヘ)政権が崩壊したあと、韓国では何が起こるのか――。
・「秩序が乱れ、軍に期待感」
--前々回の記事は「クーデター」の話で終わりました。
鈴置:保守運動の指導者、趙甲済(チョ・カプチェ)氏が自身が主宰するネットメディアで「クーデター」にしばしば言及するようになりました。
例えば「朴大統領は朝鮮日報がせよと言う通りにしてはいけない!」(2016年11月13日、韓国語)です。ポイントを訳します。
・民衆革命は必ず反応を呼ぶ。4・19学生革命は5・16軍事革命の原因となった。4・19により李承晩(イ・スンマン)大統領が下野し内閣制に改憲された。選挙では民主党が圧勝したが、執権党になった瞬間に新派と旧派に分裂した。
・一方、左翼が活動を再開し、経済が悪化。秩序が乱れ、国民が軍に期待する雰囲気が生まれた。特に共産軍との戦いで血を流した記憶が生々しい軍隊が背後の混乱に不安を感じた。国家改造の野望に燃えたエリート将校が朴正熙(パク・チョンヒ)、金鍾泌(キム・ジョンピル)を中心に団結し、軍事革命を起こした。4・19からわずか1年1カ月後のことである。
・共産主義者が扇動
--「4・19学生革命」とは?
鈴置:1960年の民主化運動を指します。当時の李承晩大統領は強引な選挙介入により政権を延命しようとしました。これに怒った学生らが全国でデモを繰り広げたのです。
警察がデモ隊に発砲するなどしたため、200人近い人が死亡しました。政権は軍も鎮圧に使おうと戒厳令を布告しました。しかし軍は応じず結局、米国の圧力で李承晩大統領は下野しました。
しかしこの後にこそ、社会の混乱が激しくなりました。それを収拾するとの名分を掲げ、一部の軍人がクーデターを起こしたのです。翌1961年の「5・16軍事革命」です。中心人物は現在の朴大統領のお父さんである朴正煕少将(当時)でした。
朴正煕大統領が10年後の1971年に書いた『民族の底力』は、当時の状況を以下のように記述し、クーデターを正当化しました。日本語版の100ページから引用します。
・四・一九学生義挙は韓国民主主義の完成ではなかった。四月義挙のあとに第二共和国が誕生し、民主党の張勉(チャン・ミョン)政権が樹立された。張勉政府は四・一九義挙による不労所得にすぎず、自主的な力量による政権獲得ではなかったために、弱体政権を免れえなかった。
・しかも四月義挙のあおりで、ますますはやったデモと、極度に乱れた社会秩序をただすだけの治安も維持できないまま、政情をますます混乱させていった。
・一九六一年春にはいっては、一部無軌道な学生が共産主義者たちの煽動に乗り、板門店(パンムンジョン)で南北協商を行うことを呼びかけるという、危険な事態にまで進んでいた。
(>>2以降に続く)
日経ビジネスオンライン 2017年1月10日(火)
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